我を通すということ

先日の女子駅伝大会で、這ってたすきを渡した選手のことが話題になっています。賛否

両論、感動したというものと棄権させるべきだったというものです。お昼の番組では、

運営上の問題であり、周りが速やかに棄権を指示し、本人を誘導すべきであったし、そ

ういうルール作りが求められる、という論調でした。確かに、一番大事なのは、選手の

体であって、そのことに異論はありません。ただ、本人の意志をどこまで尊重するか

は、難しいところです。これからは、スポーツでちょっと異変が感じられたら強制終了

させられてしまうかもしれません。時代なのでしょうか、昔は「這ってでも~しろ」と

言われたものですが、今の時代は死語、場合によってはパワハラになってしまうかもし

れません。前回につぶやいた、ジュリーの公演中止にしても、我を通すことが難しい時

代になったといえましょう。もちろん、今回の駅伝と同一線上で考えることは適切では

ないのかもしれません。特に、駅伝の場合、我を通すといってもチームの中の自分とい

う、「我」以外のプレッシャーを帯びているわけですから。でも、状況に違いはあれ、

それでも中止にする、それでも続行する、という2人の意識は共通であったように思い

ます。もちろん、当事者一人に任せることと我を通させる事は違います。今回の駅伝の

ことから、細かな内規が改正されたり改善される運営のあり方が検討されるでしょう。

でも、何事においても、事なかれ主義が横行し、我を通すことがあたかも悪いことであ

るような風潮になることは避けたいものです。と同時に、当事者自分が自らを知る、身

の程を知るといったことも大切です。当事者が主役で、主役とサポートする側がしっか

りとした信頼関係で結ばれていないと何事もうまくいきません。骨折をしながら這って

たすきを渡した選手に、大きな拍手を捧げたいと思いますし、一刻も早く完治すること

を祈ります。