成功は、セイコウ、セーコー?

読み方の話です。本来的にはセーコーですよね。日本語では、書いてある母音をそのま

ま読まないことが、文法上あります。しかし、テレビを見て聞いているとそうではない

場合がとても多くあります。というか耳にすることが多いです。つまり、セイコウと読

むパターンですね。どうも年配の私としては、耳障りが良くないのです。例えば、アナ

ウンサーなどは、放送局の決めごとなどで共通したものがあるのかもしれません。ま

た、CMなどで商品や会社名を言うときには、何らかの指示があるのかもしれません。

でも、そうではない普通の会話の時に混じってくるので。こちらはン?と思ってしまい

ます。それとも私の感覚が違うのでしょうか。例えば、以下の言葉を上記の2パターン

で声に出して読んでみてください。傾向(けいこう)、形成(けいせい)、高校(こう

こう)冷静(れいせい)訂正(ていせい)…。

日本語は難しいです。書き文字と読み文字が違うのですから。ただ、テレビでは、正し

い読み方を流していかないと、みんなが真似をします。ああそうなんだと納得してしま

います。言葉は時代とともに変わると言います。本来は、誤用であったものが、通常使

われることが多くなり、認められるようになった言葉などたくさんあります。それは仕

方のないことなのでしょう。でも、本当は、正しくは~何だということを伝えていかな

いと。どんどん誤用が市民権を得ていってしまいまうことが危惧されます。たかが言葉

かもしれませんが、されど言葉なのです。

コミュニケーション能力

我が娘は、自他共に認めるコミュニケ-ション能力のない24歳、独身。本人曰く、人

と目を合わせて離すことができない、昼食を仕事仲間と食べていても、話を合わせるこ

とができない、そして夢中になると周りが見えなくなってしまう、そんな性格らしいで

す。なるほど、なんとなく想像がつきます。どこの職場にもいそうです。場合による

と、困ったちゃん、と見られるような子が。本人は、このままこの状況が続くなら、転

職も考えたいといいます。人と関わらなくてもいい、工場のラインのような仕事に、と

もいいます。皆さんは、どう思われるでしょうか。私は、親としては、精神的につらく

て病気になりそうならば、転職も考えた方がいい、でも、気持ちの持ちようなのではな

いか、とありきたりな答えしかできませんでした。

 

コミュニケーション能力なんて、みんなが持っているわけではありません。逆に多くの

人がコンプレックスを持っているのではないでしょうか。特に若い頃は、どう振る舞っ

て良いか、それ以前に、どのように話せば良いかで四苦八苦していたような気がしま

す。考えてみれば、人とのつきあい方や人間関係についてが、仕事上の一番の問題なの

でしょうから。素直に自分の考えや思いをわかるように伝える、これすらもハードルが

高い人もいるでしょう、どこかの娘のように。しかし、要は慣れと経験のような気がし

ます。こうもいえるでしょう、どれだけ多く恥をかいたかでその人のコミュニケーショ

ン能力が磨かれる。長年生きてきて、人間には2種類あるなと思います。ボケ役と突っ

込み役です。また、立場によって両方を兼ねられる人もいます。私は、昔からボケ役で

した。その中で、自分を笑いの対象とさせながら、円滑なコミュニケーションを築こう

としていたような気がします。笑いというのは武器です。先手であるいは相手への反応

で笑いをとることができれば、存在感も増すというものです。と、娘に言おうとしまし

たが、娘の性格からして相当ハードルが高そうなので、アドバイスは断念しました。

相手の痛みを分かつこと

なかなかできそうでできないことです。

送り手は相手を傷つけるつもりはないのに、受け手が大きなダメージを受けるというこ

とがままあります。そして、それを指摘されるまで、送り手は気づかないということ

が。そこで、送り手は2種類の反応を示します。一つは反省する。一つは、軽く受

け流す。後者は、反省しません。例えば、いじめやセクハラの場合は、後者の場合が多

いような気がします。自分が悪いことをした、言ったという自覚があれば反省もするで

しょうが、自覚がないものですから、本人の戸惑いが現れてしまいます。その場合によ

く使われるのが「その程度のことで」「マジになるなよ」といったものです。

最近、韓国のアイドルグループSTBの原爆キノコ雲のプリントTシャツが物議を醸しま

した。当事者の彼らは、事の大きさに遺憾の意を表明したそうですが、多くのファンは

あまり反感を持たなかったようです。ファンの一人、うちの娘も、問題になること自体

を怒っていましたから。これについては、どこまでイデオロギーが介入しているかはわ

かりませんが、本人たちが、強い意思表示を狙ったものとは考えにくいようです。

いずれにしても、送り手側と受け手側の意思の疎通がうまくなされないところに、不幸

が訪れます。私は、表題について上から目線でいうつもりはありません。かくいう私

は、昭和の男ですから、昔はさぞセクハラまがいなことを言って顰蹙を買っていたのに

違いないのですから。やんわり笑って受け止めてくれる女性に、受けた、といい気に

なって追い打ちをかけるようなことをいっていたんだろうなあ、と思うと恥ずかしい限

りです。

子どもの頃から、相手の立場になって考えなさい、と言われてみんなしつけられてきま

した。しかし最近思うのですが、相手の立場や感情を知ることは、無理なんじゃない

か、なぜならみんなひとりひとりの生育歴での価値観がスタンダードだと思って行動し

ているのですから。ただ、いろいろなハラスメントの啓発が行われている現代では、

「もしかすると~」と思うのは可能ではないか。自分が持っている価値観は間違いない

とは思うけれど、万が一と言うことがある、という感覚で動くことが今の時代の、人と

しての生き方なのだと思います。もう小学校に入ったら、必要な自覚かもしれません

ね。それしか相手の痛みを分かつ術はないのではないでしょうか。

慣れることは、怖いこと

娘が自動車運転免許の路上教習をするのが慣れてないので怖いと言っていました。確か

に自分の時を振り返っても、そうでした。よくわかります。それは、運転免許を取り立

ての時もそうでした。そんなある日、タクシーに乗ったときに、運転手さんとこんな会

話になりました。「免許を取ったばかりで、いつ事故に遭うのじゃないかとひやひやし

ながら運転しているんです。」「びくびくしながら運転している間は大丈夫だよ。慣れ

てきて、自分はもう大丈夫だと思うようになってくると危ないものだよ。」なるほどな

あと思いました。たしかに、慣れてないうちは、怖いので、より注意深く運転します。

しかし、慣れてくると要領もわかるので、いい意味でスムーズに悪い意味で雑な運転に

なってきてしまいます。徒然草の高名の木登りの段にも同じようなエピソードが書かれ

ていましたね。木登りの名人が、弟子が高木の剪定作業の指導をしているときに、高い

ところでは声をかけなかったけれど、低いところで注意するように声をかけたという。

なぜかと問うたら、人間危険なところでは、自分でもわかっているから気をつける、で

も安全そうだと思うところで怪我をするものだ、と答えたと言います。ですから、事故

は意外なところで起こると言うことです。そう考えて、自分を振り返れば、まさしくそ

うです。私のいろいろな失敗は、物事を甘く考えた故の結果であることが多いことがわ

かります。娘に、先述のタクシーの運転手さんとの会話を伝えると、へえというわかっ

たようなわからないような返事です。それはそうです。彼女にとっては、第一段階の慣

れていない状態が今なのですから。第二段階の慣れた状態は、この先にあるので、実感

できないのでしょう。自分は、もう人生の折り返し地点をターンした年齢なので、慣れ

ていることは多いです。しかし、慣れることは、怖いことを改めて教訓にしていきたい

と思います。

やって後悔するのとやらないで後悔するのでは…

よく言いますよね。やって後悔するのがいいか、やらないで後悔するのがいいか。

先輩が後輩を鼓舞するときに使う台詞ですね。そう言われれば、ほとんどの人は、決

まったように前者を選ぶでしょう。先輩も、うんうんと頷くでしょう。しかしこれが、

自問自答する場合はどうでしょうか。先ほどの場合、先輩はよかれと思って言ってくれ

たのでしょうが、自問自答の場合は、自らの欲求を秤にかける場合があります。この台

詞の危険なところは、そこにあるような気がします。たとえば、やる行為が違法であっ

たり非倫理的であったりした場合、その場の衝動で「後悔」という秤にかけられたらど

うでしょう。それこそ、その場の雰囲気で流されてしまうことがあるような気がしま

す。先日の、ハロウィーンの渋谷駅前の混乱からそんな事を思いました。何やら、

ニュースでは海の向こうのフランスではもっとすごいことになっていたようですが。

 

さて、例えば踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損、とか見る前に跳べと

か、躊躇する気持ちを駆り立てる言葉がたくさんあります。それらを否定するつもりは

全然ありません。実際世の中の多くのことは、躊躇してやらなかったことより勇気を出

してやってみた方が、新しい世界が開けることが多いことも私たちは経験で知っていま

す。では、逆は真ではないのでしょうか。「後悔」というとちょっと強めなので残念な

気持ちとしてみましょう。そういった経験も私たちは持っています。特に、恋愛に関す

る甘酸っぱい思い出なんかはそうではないでしょうか。恥ずかしながら、私も若いとき

にはありました。なんであの時…。という強い思いは今でも残っています。でも、それ

はそれで人生の選択としてはありなのだな、と思っています。つまり、やらないで後悔

することもいいものだよ、と若い子を煙に巻くのも大人の所作なのではないかと思った

りします。特に、今の時代一気飲みのかけ声のようにいけいけゴーゴーのご時世、跳ぶ

前に見ろ、落ち着けと若い者には言いたいです。たとえ、私がそういったところで、み

んなが消極的になるわけではないでしょうに。

笑点の大喜利を見て笑いたい

私は結構好きで、日曜日の5時半は気がつくと、チャンネルを合わせています。視聴者

は、やはり年配の方々が多いのでしょうか。年齢層の割合を知りたいものです。この大

喜利というのは、まさに日本の伝統芸能といってもいいのではないでしょうか。もう、

水戸黄門のように予定調和の世界です。それぞれのキャラクターが立っていて、必要な

ときに、その人が、笑いをとってくれるという安心感の中で成り立つ世界です。大昔か

らそういうものだったと思います。お題に対して、それぞれの個性で返していく。でも

最近見ていて思うのは、駄洒落や親父ギャグでその場を凌ごうとする場面が多く、残念

だなということです。もちろん、答えの一つとしてはありです。そもそも、駄洒落や親

父ギャグは立派な言葉遊びだと私は思っており、ボキャボラリーと恥がなければ人前で

いえるものではないのです。言うまでもなく、日本語のダブルミーニング性で、ある世

界から別の世界へ展開させることは、快感ですらあります。でも、天下の大喜利で披露

するのは、市井で交わされるものと同じレベルでは困ります。前司会者の桂歌丸は、日

本語をもっと大切にしなくてはいけない、とよく言っていたということですが、我が意

を得たりです。お題に対して、ひょいと受け流すしゃれがあってもいい。時局ネタで風

刺を効かすのもいい。下ネタで笑いをとることだって下品にならなければいい。でも、

いずれにしても、言葉っておもしろいなあ、いいなあと思わせてくれなければ意味ない

と思うのです。そこが、伝統芸能だと言ったゆえんなのです。ところで司会を春風亭昇

太にしたのは正解でしたね。彼のいじられキャラが、他の出演者との一体感を醸し出し

ています。三遊亭円楽がしっかりと出演者の中で存在感を発揮していて、安心感があり

ます。そうそう、円楽がまだ出たての頃、受けなくて苦労していたときに、歌丸が、そ

んなときは自分をいじれ、と言ってくれたそうです。彼の腹黒キャラがあるのも、歌丸

のおかげなのですね。

大喜利が、さらに内容が充実され、世代を超えて受け入れられ、長寿番組として続くこ

とを願っています。

我を通すということ

先日の女子駅伝大会で、這ってたすきを渡した選手のことが話題になっています。賛否

両論、感動したというものと棄権させるべきだったというものです。お昼の番組では、

運営上の問題であり、周りが速やかに棄権を指示し、本人を誘導すべきであったし、そ

ういうルール作りが求められる、という論調でした。確かに、一番大事なのは、選手の

体であって、そのことに異論はありません。ただ、本人の意志をどこまで尊重するか

は、難しいところです。これからは、スポーツでちょっと異変が感じられたら強制終了

させられてしまうかもしれません。時代なのでしょうか、昔は「這ってでも~しろ」と

言われたものですが、今の時代は死語、場合によってはパワハラになってしまうかもし

れません。前回につぶやいた、ジュリーの公演中止にしても、我を通すことが難しい時

代になったといえましょう。もちろん、今回の駅伝と同一線上で考えることは適切では

ないのかもしれません。特に、駅伝の場合、我を通すといってもチームの中の自分とい

う、「我」以外のプレッシャーを帯びているわけですから。でも、状況に違いはあれ、

それでも中止にする、それでも続行する、という2人の意識は共通であったように思い

ます。もちろん、当事者一人に任せることと我を通させる事は違います。今回の駅伝の

ことから、細かな内規が改正されたり改善される運営のあり方が検討されるでしょう。

でも、何事においても、事なかれ主義が横行し、我を通すことがあたかも悪いことであ

るような風潮になることは避けたいものです。と同時に、当事者自分が自らを知る、身

の程を知るといったことも大切です。当事者が主役で、主役とサポートする側がしっか

りとした信頼関係で結ばれていないと何事もうまくいきません。骨折をしながら這って

たすきを渡した選手に、大きな拍手を捧げたいと思いますし、一刻も早く完治すること

を祈ります。