ジュリーの公演中止

先週は、芸能面ではこのニュースが大きく報道されていました。私の世代では、沢田研二と呼ぶよりジュリーの方が一般的なのでこのように記しています。この件については、すでに詳細が取材されており、公演中止はジュリー本人が客が集まらなかったからと述べています。この決定については、当然、賛否両論あるわけです。賛成派というかジュリーに同情派は、そのプロ意識に共感しつつ、事務所やプロモーターを批判します。なぜ、ジュリーの意志を忖度しながら調整できなかったのか、と。対して、反対派は、たとえ少ない客数であっても、お客さんあっての芸能人なんだから、プロとして公演を行うべきであった、と。私は、どちらかというと後者寄りです。でも、いいたいことは、ジュリー批判ではないのです。もしかすると、逆かも。

今の時代、プロであろうとなかろうと、~のためには、少しぐらいがまんして行動しよう、という意識が大半ではないでしょうか。よく言えば、優しさの時代にいるといえましょう。いろいろな大小の美談、エピソードには事欠きません。そういう風潮に慣れた私たちにとっては、今回のことは、目を疑うようなニュースだったわけです。その理由がジュリーなりのプロ意識というわけで誰もが驚いたのです。昔であれば、アーティストは、自分の美学や信念を貫き、あるときはファンを振り回すような言動をすることもありました。しかし、今、そうするアーティストはほとんどいません。良い意味で、みんなサービス精神にあふれています。

今回の件では、アーティスト側と運営側の齟齬によって起こったものですが、ジュリーが自分の信念と美学を貫いたという点では感心します。普通、そこまでできません。しかし、ジュリーというスターでありビッグネームだからできたという言い方もできましょう。先述したように、お客さんの立場からすると私は、賛成しかねるものですが、この平成の時代に、やってくれたな、という思いもしています。

羊と鋼の森の姉妹

 

羊と鋼の森 Blu-ray豪華版

羊と鋼の森 Blu-ray豪華版

 

 

前に取り上げた小説です。私は映画の方が印象に残っているので、映画版を中心に書い

ていきます。主人公を取り巻く人々の中に、2人のピアニストを目指す姉妹がいまし

た。演じるのは上白石萌音と萌歌の実際の姉妹です。最近、ますます活躍している二人

ですよね。見た目から、お姉さんの方が線が細く、妹はラフな感じに演じていました。

実際小説でもそう記述されていました。妹の萌歌さんは、最近まで放映されていたドラ

マ「義母と娘のブルース」で娘役を演じていましたね。明朗快活でまっすぐな性格、羊

と鋼の森と同様な役作りでした。実際の上白石姉妹はどうかわかりませんが、見た感じ

は、先に書いたような印象を与えます。

 

話を戻して、~の森では、見る者を意外に思わさせる事実がありました。毎日、ピアノ

の練習をしないと心配でならない姉とピアノの練習をせずにコンクールに臨む妹の対照

的な二人。ピアノコンクールで、突然指が動かなくなってしまったのは、姉の方かと思

いきや妹の方だったのです。つまり、活発な妹の方が、姉よりもずっと繊細で神経質

だったのです。そのことがわかった場面で、私は最初はやはり意外な気持ちでしたが、

その後、そういうことってあるよなと思い始めました。我々が知っている人でもいます

よね。石橋をたたいて渡るようなイメージだった人が結構肝っ玉が据わっていたり、逆

に豪放磊落に見える人が小心でさびしがりやだったりとか、見た目と実際が違う場合

が。私の娘二人もそうですね。見た目は、~の森に出てくる姉妹と同じで、簡単に言っ

て姉が陰で妹が陽。周りは、妹を強い子だと思って相応に対します。妹の方は、そうい

う風に見られていると思い、その役割を演じます。しかし、何かの折、意外なところで

妹の神経の細さが露呈して、周りがおろろとなることがありました。もちろん、人間の

性格は単純なものではありません。複雑なものです。でも、人は往々にしてイメージで

判断して応対し、その後ドラマが発生していくものなんですよね。そういう経験を通し

て私たちは、人とのつきあい方の社会勉強をすることになるのだと思います。羊と鋼の

森の姉妹に対するように。

 

V6の愛なんだ2018

24日に3時間枠で放映されていたものです。未成年の主張をめあてに見始めました

が、番組全体がおもしろく結局最後まで見入ってしまいました。v6のメンバーが全国

を回って、中高生と触れ合うのですがそれが、実にすがすがしく気持ちがいいものでし

た。お目当ての未成年の主張は、笑いあり涙ありの内容で期待以上でした。

 

この番組で、気が付いたことがあります。生徒たちの主張は屋上の特設ステージで繰り

広げられるわけですが、主張する子たちにちゃんと腰に安全用の腰ひもがつけられてい

たことです。安全対策として当然といえば当然なのかもしれませんが、配慮の行き届い

た側面が見られました。また、番組の行動力として驚いたことは、レディ・ガガに会い

たい生徒のために、イタリアまで行き、それを実現させてしまう下りです。いろいろな

マネージメントのやりとりがあったことは想像に難くないことです。生徒を紹介すると

ころで、この番組は若者の思いを支援するもので、と言っていましたがまさにそうでし

たね。余談ですが、レディ・ガガの対応もすばらしく、さすがプロと思わせてくれまし

たし、ファンになってしまいました。

 

最後に訪れた学校は、来春で閉校する熊本の高校でした。そこでの、未成年の主張は地

域を挙げてのものとなりました。主張の内容も、地域あっての学校、学校あっての地域

ということが強調され感動を誘いました。この学校に限らず、やはり学校というものは

地域の拠点であり、生徒を地域が育てると同時に生徒によって地域が育つという側面が

あるはずです。それが、如実に表れた場面だったと思います。最近のバラエティでは、

学生が登場する機会が増えてきています。中には、番組として面白くしようという演出

が見え見えで興ざめしてしまうものもあります。また、学生をいじり倒して笑いを取ろ

うとする番組もあるような気がします。そういった中で、この番組は良心的な番組つく

りがなされていたように思います。3時間、最後までさわやかさが持続した番組でし

た。

義母と娘のブルース最終回

楽しみにしていたドラマが終わってしまいました。

娘は、実の両親が亡くなって以来10年間育ててくれた義母に対し、恩を感

じ、自分の夢を捨て、義母がこれから自由に生きるようにとり計ろうとしま

す。それに気づいた義母は、自分も幼少時に両親を亡くした過去を話して次の

ように言います。

あなたを育てると口では言いながら、私はその実、満たされなかった自分を哀れみ育て直していたのです。貴方は私に利用されただけ。だから恩に着る必要など何一つないのです。

それに対し娘は、お母さんばかじゃないの、と泣きながらいいます。そして言

います。世間ではね、そういうのを愛って言うんだよ。

いや、泣けました。綾瀬はるかが演じる義母のエキセントリックな言動に、笑

いながら、いつしかツボにはまってしまいました。義母の台詞をもう一度、見

てみましょう。これは、どの親子にもいえる関係なのではないでしょうか。ス

トイックな義母だから、クールで突き放したような言い方をしていますが。子

育ては自分育てだ、という言葉があります。子どもを育てているつもりで自分

が育てられているという意味です。義母は、そのことを「利用」という言葉で

表しています。ギブアンドテイクの関係だから、恩に着る必要はないといいま

す。このあたりが元キャリアウーマンという設定の脚本のうまさです。しか

し、娘は、それらすべてを愛という言葉であらわします。義母は、はっときづ

いた表情になります。幼くして親を亡くし、愛を知らずに育った義母は、ここ

で今まで娘に対して行ってきたことが、まさにそれだと気づいたのです。

親子は、当たり前のように愛を与え、愛を受け取り、それをあまり意識するこ

とはありません。どちらかというと、相手に対する矢印が一方向の感情になっ

てしまいます。このドラマを見た人たちが、実は双方向の愛と呼ばれる感情で

親子がつながっている、ということを再確認できたら素晴らしいな、と思いま

した。

 

義母と娘のブルース DVD-BOX

義母と娘のブルース DVD-BOX

 

 

敬老の日

老人は何歳からかの定義はありませんが、高齢者といえばこれもくくりで違い

ますが、60歳あるいは65歳からということになりましょう。そうすると私

などは、もう少しで仲間入りの年代です。敬老の日というとこれまではずっと

「する」側の人間で、いつかは「される」側になるなどとは少しも思いません

でした。理屈から考えると、そんなことはあり得ないのですが。ただ、老い

いうものは自分のフィジカル、メンタル面の自覚以前に、周りの見る目による

いわば強制的自覚が促されるような気がします。年なんだから、年取ったねえ

とか口で言われる場合と、目は口ほどにものを言いの場合があります。自分

は、必要な時意外は鏡は見ないのですが、(その必要な時はひげを剃るとき)

昔とそんなに変わってないような気がします。まだまだ若いじゃないかと。

しかし、妻が自分のことを娘と話す会話を聞いていると「老いは首回りから」

とか「しみ、しわが」とか「ほおのたるみが」とかの言葉が出てきます。それ

らを自分に当てはめてみると、完全にフィットします。そうか自分は、見よう

としていなかっただけなんだ、ということがわかります。そういう点では女は

現実を見据えることができるのですね。今日一日は、日本全国で子どもや孫か

ら対象となる人に言葉でも添えてプレゼントの一つでも進呈されるのでしょ

う。でも、なんて言って?おじいちゃんお疲れ様?おばあちゃんおめでとう?

どちらも違うような気がしますが、あまり気にすることはありませんね。敬老

という言葉、その行為が大切なのですから。日本は昔と違い、年功序列の精神

がすたれてきています。核家族化が進み、おじいさん、おばあさんと同居する

ケースも減ってきました。だから、普段の生活の中で、敬う経験を知らずに子

どもたちは大きくなって、社会人になります。その点、儒教の国の韓国は徹底

しています。年寄りを敬うのは当たり前、年上を必ずリスペクトします。この

日本の敬老の日は、この日があることでお年寄りをみんなで大切にする、とい

う気運を高める大切な日なんだという気持ちをみんなで共有したいですね。

断捨離

年齢が60歳に近づくと、「終わった人」世代の私たちは、これからの生き方

を考えるようになります。いわゆる終活です。その終活の一つが断捨離である

といえましょう。断つ、捨てる、離れる。なかなかできるようでできません。

私はこの夏、自分の趣味であるCDコレクトの断捨離をしました。これまで集

めてきた数千枚のCDとレコードを処分したのです。全部で段ボール箱で50

箱以上になりました。といいつつも、やはり最後まで捨てがたい、最後まで

迷っているものをえらんで5箱残ってしまいました。家族は、1箱にまでしろ

というのですが、思い切ることができません。コレクションというものは、そ

れを手に入れたときの思い出が付帯しているので、なかなか機械的に断捨離が

できないと言うことを改めて知りました。ただ、大幅に整理し、CDラックも

処分すると自分の部屋が広くなったこと。CDと同時にいろいろな本も整理し

たので、床の広さが印象的です。ものを買う、手に入れるという楽しみは、

買っている、手に入れたときがピークでそれ以降は、下降線です。いわゆる脳

内にドーパミンが出る状態なんでしょうね。その時の興奮状態が忘れられず

に、同じ事を繰り返し、ものがたまる一方となるのでしょう。CDに関して

は、今の人は音楽を聴く手段としてはネット配信を利用するのでしょう。でも

私らの世代は、レコード、CDです。ジャケットも商品の一部ですし、曲目の

配列も意図的なものでした。ですから、アルバムやケースを愛でながら聞いた

ものです。また、やっかいなことに、ボーナストラックが入っている、リマス

ターされ音が良くなっていると情報を聞きつければ、何度も買い換えたもので

す。私は、プログレが好きなものですから、同じ内容で再発のCDが何枚もあ

ります。プログレはその傾向が多いようです。先ほど、残した5箱の多くは、

やはりそのジャンルでした。

断捨離をしたといえばかっこはいいのですが、どうやらめめしい独り言になっ

てしまったようです。

手を合わせるということ

私の家には仏壇はありません。そのかわり亡くなった母の小さな遺影と亡く

なった父親の表札を一所において、毎日それを見て拝んでいます。拝む内容

は、日によって違うのですが、多くは一日よろしくお願いします、というもの

です。時に苦しいときがあるときは、それこそ神頼みのように、助けてくださ

いとか救ってください、というときもあります。これは、特に宗教というわけ

ではなく、毎日の習慣、いわばルーティーンです。

私は、8月のお盆の時期に先祖の墓参りに行ってきました。いろいろ思うとこ

ろあり気分転換も兼ねて(なんていうと、罰が当たりそうですが)行ってきま

した。墓の周りをきれいにし、花を生け、線香に火をつけ手を合わせ、目をつ

むっていると特別な感慨がありました。この墓に入っているご先祖さまに見つ

められているような気がしました。それは少しもホラー感覚なものではなく、

むしろ安心感でした。近くには、誰もいなかったので、小声で苦しい胸の内な

どを吐露したりしました。それで何がどうのではありませんが、またその後す

べてが好転したわけではありませんが、安心感を与えてくれたのは確かです。

日本人は、こうして手を合わせることによって自分自身を見つめ直すことがで

きる文化を持っているのだなあと思いました。家の近くに氷川神社があるので

すが、昭和を感じさせるとても魅力的な場所なんです。普段は、だれも来ない

この神社に時々散歩に来ます。ここに来ることが目的ではないにしろ、社に向

かって一礼し手を合わせますものね。

遺影の前、墓の前、神社の前で手を合わせていると、頭の中で自分の声ではあ

りますが、「だいじょうぶだ、だいじょうぶだよ。」という声が聞こえてくる

ような気がします。そう思い込ませているのかもしれませんけど。

手と手を合わせてしあわせ、ではないけれど謙虚な気持ち、感謝の気持ち、畏

敬の念などがわきおこり、それが幸せな気持ちにしてくれるような気がしま

す。この伝統文化は、子等にもぜひ引き継いでいかなければならないものだな

あと感じています。