運動会前に思う

昨日、今日と過ごしやすい日が続いています。近くの小学校では、運動会の練

習に余念がない様子で、もうそんな時期なのだなあと感じさせてくれます。運

動会が半日で終了してしまう学校が増えてきているという話ですが、近くの小

学校はどうするのでしょうか、詳細はわかりません。私の世代ですと、運動会

の目玉は組体操でした。静寂の中、響くのは合図の太鼓の音だけ。大きくドン

と打ち鳴らされた後、決めのポーズを作り、オーとかけ声をあげる。そこに拍

手が被さる。そんな光景が頭をよぎります。決して懐古趣味ではないのです

が、組体操は続けてほしいなあと思います。その連帯感、達成感は何にも増し

て貴重なものだと思うからです。でも、今の子どもたちの体力事情がありま

す。例えば、腕立て伏せのように両腕で自分の体を支えることが難しい子がい

ます。それでは、ピラミッドは苦しいでしょう。支え倒立後に足を戻したら足

の指を骨折する子がいます。それでは、組技は苦しくなります。体力が無いま

ま高学年になると、こどもたちにとってもきつい状況になります。ですから、

小学校入学時より、基礎体力を段階的に養うプログラムが必要だと思います。

私たちの時代は、指導する先生方が基本的な手順を教えた後は、それこそ「気

合いだー」で何とかなったような気がします。決して、根性がどうのこうので

はなく、普段からそういう体の動きを見たりやったりしていたのと、今の子よ

りも多少の体力と我慢強さがあったからだと思います。そういう点では、今の

先生は大変です。技を懇切丁寧に一から一つずつ、安全面を含め指導していか

なければならないのですから。それで子どもが怪我でもすれば、保護者や教育

委員会の目が厳しくなってきていますものね。多少の怪我はつきものです。そ

れを恐れることなく、細かな指導プログラムに基づいて子どもたちに、喜びを

あたえてあげたいですね。当日、主人公となる子どもたちは、一生の思い出に

なることは間違いありませんから。

秋深しこれから俳句の季節かな

友達に勧められ、最近俳句を作り始めています。五七五のリズムの中に季語を

入れ情景を詠むのは、おもしろいけれど難しいものです。季語と言っても、よ

く調べないと自分が思っているのが違う季節ということもありやっかいです。

たとえば、ブランコを句の中に入れようとしたら、それが季語で春を表す事に

気づき断念したものです。テレビでもプレバトなどで俳句の添削を見ている

と、先述したようにおもしろいけれどやはり難しいなあと思ってしまいます。

俳句の良さというのは、無駄な言葉を削ぎ落とし、精選させ、本質のみを浮か

び上がらせることだと思います。逆に伝えようとする本質がぶれていると、的

確な句ができません。思えば、今の時代、言葉が蔓延しています。一つの言葉

を大切にしないまま発するところから様々なトラブルに見舞われるのです。あ

ることを言おうとして、ニュアンスが違うことに気づき、言い訳や解説のよう

な言葉をつけてだらだらとした話になってしまうことが、日常の中でも結構あ

るのではないでしょうか。私なんかしょっちゅうです。そうならないための練

習としても俳句は有効のように感じます。友達の話では、詩人や作家で自殺し

た人はいるが、俳人ではいないそうです。本当かなと思いましたが、言葉を突

き詰め、十七文字に季節感を埋め込む作業は、なんらかの心理的効果があるの

でしょう。私などは作り始めてまだ2週間。日常生活の断片日記みたいで、作

品となり得ませんが、恥ずかしながら公開しましょう。

・子を送り箱なる車秋の夜

・大量の洗濯踊れる野分あと

・夕焼けや見事に炙った鰯雲

・神社奥暗がり映ゆる紅葉かな

実は、今日、友達に会いこれらを含めた俳句を見てもらうことになっていま

す。そこで、何を言われるか楽しみでもあり、不安でもありです。

 

マスコミの功と罪

何をいまさらと思うかもしれませんが、今回の北海道地震の報道を見て改めて

そう感じました。NHKは、ずっとニュースを流し、細かい情報を伝えました。

どこのスーパーは開店している、給水はどこの場所で行っている、スマホの充

電場所や各社の対応ぶりなど、全国ネットでありながら地方番組のような報道

の仕方でした。私は、さすがNHKだと思いました。北海道は、電気が通ってい

ないところが多く、テレビもつかない状況である。SNSは使えるので、北海道

以外で番組を見て心配した知人、親戚が間接的に連絡してあげることができ

る。そういった役割をNHKは自覚して発信しているのだと強く感じました。逆

NHKでしかできないことだと思いました。民放はそれができない。その差別

化を図るためにどうしてもインパクトのある内容にならざるをえない。悪い意

味で印象的だったのは、家族が行方不明で心配している、悲しんでいる方々へ

のインタビューというかカメラをずっと向けている神経です。後に、お亡くな

りになって発見されたのですが、それがわかったときの家族の方の様子をうつ

していました。今の時代、視覚的情報が一番インパクトがあり、それをいかに

効果的に流すかがメディア関係者の腕が問われるところでしょう。でも伝える

側が本当に伝えたいことは、「生の」状態をそのまま垂れ流すことなのでしょ

うか。放送コードに触れなければ、そのまま放映することが、ベストの選択な

のでしょうか。また、視聴者は、そのように報道されなければ悲惨さが想像で

きないと思われているのでしょうか。報道する側にも、言い分はあると思いま

す。特に民放は、スポンサーがあり、視聴率を意識しなければならないなどの

縛りがあることは、同情します。しかし、報道マンとしての矜持はもってほし

いものだと強く思います。

北海道で震度7

このニュースを聞いて、思ったことを書こうとし、3回書いて3回消しまし

た。言葉を選んでも、結局安全地帯にいる側からの同情のように思えてしまっ

たからです。奇しくも私が、前のブログで書いた「下に見る人」そのものでは

ないかと思ってしまうのです。報道で様々な状況が流れる中、私たちはおおよ

そのことは、わかりますし想像することはできます。しかし、当たり前のこと

ですが、実感することはできません。

私は、関東に住んでいるので、だいぶ前では阪神の大地震、最近では広島、そ

して今回の北海道の天災の直接的な被害はありませんでした。間接的な影響を

受けたのは、東日本の大震災でした。その時の自分の経験で心に残っているの

は、車のガソリンを求めてガソリンスタンド脇で夜を明かしたことです。ライ

フライン等が遮断されたとき、こうなるんだと身をもって知りました。しか

し、考えてみれば私が経験したことはたいしたことはないわけです。車が動か

なくても、不便ではあるかもしれませんが不幸なわけではないのです。直接被

害に遭われた方は、家族を財産をなくされた場合もあるわけですから、比較の

対象ではありません。

そう考えると、今回の震災を含め、災害に遭われた方々、現在も被害のただ中

にある方々には、軽々しいものの言い方はできません。でも、これだけは言い

たいと思います。広島の災害でもそうでしたが、みんなが協力しながら生きる

ことに前向きであることに勇気をもらいます。自分たちも、いつどんな災いが

あるかもしれないけれど、その時に、ああ、あの時もみんながんばっていたの

だからと元気を呼び起こす源になると思います。のど元過ぎれば熱さを忘れ

る、ということわざがあるように、その時は大騒ぎしても、次第に記憶から

フェードアウトしてしまう、今回の災害に限らず、何事にもこのことわざが示

す教訓を戒めにして、そして今、北海道で苦労されている方々に思いを馳せな

がら、日々を送っていきたいと思います。

酒井順子さんの「下に見る人」

今回は上記の本を読んだ感想です。酒井順子さんのベストセラーといえば、

「負け犬の遠吠え」です。ご本人は「独身生活が楽しいとか充実していると

か、どれほど語ったところで、世間様から見たら負け犬の遠吠えでしかないの

であるなあ」という実感を記したものだったそうですが、それが賛否両論を生

むことになりました。それが正しいとか正しくないとかではなく、あの時代の

その時の年齢の酒井さんが感じた率直さが受けたのだと思います。

 

私が酒井さんの書くエッセイがいいなあと思うのは、単に「あるある」もので

はなく、良い意味で自分を起点にして考え謙虚なスタンスで問題提起している

ところです。それは、私と価値観が似ているからかもしれません。今回のエッ

セイの一つの章「甘い誘惑」では、いじめ加害者のカミングアウトについて言

及していました。わたしもずっと、いくら世の中いじめがいけない、とか私も

実はいじめられてました、といっても変わらないだろうな、実は自分いじめし

てました、という人たちがどんどんカミングアウトしなければ、まあ、自覚が

ないからそれは無理だろうけど、と思っていたからです。つまりこの本は、い

じめを含め、人間関係における相対性を描いた本なのです。

ある章ではニックネームが話題になっていました。筆者が小学校時代クラス全

員に何でもいいから得意分野にちなんだ「ミス〇〇」の称号を与えようという

ことになったのだそうです。筆者は書きます。

発案した子は、今風に言うならば「ナンバーワンにならなくていい。それぞれみんなが、オンリーワンなんだよ」的な空気を、教室にもたらしたかったのだと思うのです。

その結果、想像通り〇〇をつけやすい子〇〇に言葉がなかなか入らない子に二

分されます。子どもの世界のちょっと残酷な面を表していました。ちょっと脱

線しますが、槇原敬之の「世界に一つだけの花」の歌詞は素晴らしいのに、な

ぜ意図的に二次使用される場になるとうさん臭くなるのでしょうね。一番じゃ

なきゃダメなんですか、二番じゃいけないんですか、の叫び声が聞こえてしま

います。

酒井さんの「下に見る人」は、読みやすいながら、他人ごとではなく自分事と

して振り返らせる何かがあります。例えるなら「ある、ある~」ではなく「だ

よね…」と思わせるような。

 

下に見る人 (角川文庫)

下に見る人 (角川文庫)

 

 

 

 

ハラスメントについて

学校でのいじめ問題、これはずっと続いている解決策のない課題です。しかし

最近は、これが学校以外のところで問題となる事案が多々報道されています。

いわゆるパワーハラスメントです。今回の女子体操部の案件では、二重のパワ

ハラ構造を示しているように見えます。今回特異なのは、被害者と思われる女

子選手が、加害者であるコーチを擁護していることです。パワーハラスメント

は立場を利用したいわゆるいじめなわけで、本人が嫌悪感を示していないはど

うなるのでしょうか。ただし、たたくなどの体罰あるいは物理的言動があっ

て、端から見ていて、気分の良くない場合は、パワハラではないのかと言う思

いをもたれる場合はあるかもしれません。ですから今回の場合は、パワハラ

いう言葉の定義や概念とは違った内容なのかもしれません。そういう意味では

塚原夫妻の言動がパワハラと断定する方がわかりやすいような気がします。と

ころで、スポーツの世界でパワハラ云々というのは、他の世界とはちょっと違

うものがあるのではないでしょうか。自分が心から信頼する師弟関係にパワハ

ラという概念が存在するのかと思えてしまいます。はっきりいってよくわから

ない。別の言い方をするなら、それぞれの世界にはそれぞれの感覚があると言

うことでしょうか。「こんなこと言ったりやったりしたらパワハラといわれ

ちゃうからなあ」などと言いながら情熱的な指導はできないでしょう。もちろ

ん、もちろん時代は変わっているわけで、情熱的指導が金科玉条パワハラ

むなしなどとは思いませんが。でもこれから、スポーツをはじめとしていろい

ろな熱く濃い人間関係が、今回のことで薄く淡泊なものにならないようにと思

います。繰り返しますが、いくら私が昭和生まれだからと言って、様々なハラ

スメントを肯定しているわけでは決してありませんから。最後に、モラルハラ

スメントという言葉があります。上から下へのハラスメントがパワハラなら

ば、優位的立場を持つ者で同じレベルあるいは下から上へのハラスメントをモ

ラハラというようです。どうもテレビを見ていると、パワハラ報道をする記者

やコメンテーターの言葉がモラルハラスメントであるような気がしてなりませ

ん。もう、いじめは子どもだけの世界だけではないのです、やっぱり。

全国学力学習状況調査

文科省の進める全国学力学習状況調査の今年度の結果報告がそろそろ公表され

ます。本来、順位付けが目的ではないにもかかわらず、都道府県レベル、市町

村レベル、市町村内学校レベルでの順位付けがまことしやかに行われます。実

際、知事、市長、議員の挨拶の中で、そのことが話題になることもしばしばで

す。子どもたちの学力を上げなければ、これからインターナショナルで戦って

いくための国力が落ちてしまう。だから…、というのはわかります。私は、文

科省が目指す一人一人の学習の伸びを客観的にとらえて、次の学習意欲の糧と

するという目的には賛同します。そのために、各学校の先生方がどれだけ努力

をしているかも知っています。しかし、経済所得や親の学歴が高い家庭の子に

は太刀打ちできないと言うこともこの調査でわかってきています。お偉いさん

が、「うちは順位が低いからなんとかしろ。このままだと教育予算を削減する

ぞ」というのは、おかしな話です。

私は、子どもたちの学力を向上させることは大賛成です。学力とは生きていく

力なのですから。よく、学校で習ったことは社会で全然役に立ってない、と言

う人がいますがそれは違います。記憶すること、思考すること、集団協議する

ことなどすべてが、若い頃の脳を鍛え、それが生きる力になっているはずなの

です。おわかりかと思いますが、私の言う学力は数字だけで表されるものでは

ないと言うことです。よくいいますよね。天才とは99%の努力と1%のひら

めきでできていると。別の言い方をすれば、努力し続けることができる人を天

才と呼ぶのでしょう。たとえ、天才とまではいかなくとも、あくなき好奇心、

思考の持続性、そして問題解決能力は、社会人の学力としてつけなければいけ

ないことでしょう。私が危惧し、嫌悪するのは、数字で出た結果で、できる

子、できない子の烙印を押し、それを生産性という言葉に置き換えることで

す。どうか、お偉いさん方が意識を変えていただき、子どもたち一人一人が自

立できるような教育環境を整えていってほしいと思います。